2010年03月01日

時間について


過去の思いの中に未来があり、未来の思いの中に過去があることは既に学びしはずである。されば今の思いの中に過去があり、今の思いの中に未来があることも当然のことである。されは、誰しも同じであり、仏の一瞬の思いの中にも過去現在未来のすべての時間が含まれている。

それが心である。過去なくして現在はなく、過去なくして未来もない、現在なくして未来もなく、現在なくして過去もない。それが人間の心である。

ある者は、現在の時間の中に生きながらも過去の時間の中に生き、ある者は、現在の時間の中に生きながらも、未来の時間を生きる。またある者は、過去があることを知りながらも過去があることを忘れ、未来があることを知りながらも、未来を忘れて刹那の時間を生きる。

そのどれもが仏の知恵を知らぬ者たちの生き方であり、過去の怨みを抱き続ける者は、現在の時間を生きながらも過去の時間の中を生き続け、夢想の中に生き続ける者は、現在の時間を生きながらも心は現在になく、未来の中にしかない。

それは誰しもが同じである。仏であっても、その思いの中には、すべての時間があることを忘れてはならない。現在を生きながらも過去に生きることもできれば、未来の時間を生きることもできるのである。否、すべての一瞬の思いの中に、すべての時間があり、すべての思いの中に一瞬の時間がある。その両者を区別して考えるべきではなく、区別して考えるならば、我が教えの真意を見失うであろう。

現在を生きながらも、過去の時間の中に生きる者は、過去の中に未来があることを知らぬ者でしかない。過去の時間の中にも過去があり、過去の時間の中にも現在があり、過去の時間の中にも未来がある。すべての時間が、刹那の時間の中に含まれていることを知るならば、過去にとらわれることも未来にとらわれることの愚かさも知るはずである。

それは教えを学び、言葉で理解したとしも何の意味もないことである。過去の記憶の中に生きようとする者は、過去の記憶の中に自分の理想を追い求める者であり、刹那の喜びを追い求める者と同じ心でしかない。


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2010年02月06日

悟りとは

 仏の知恵とは宇宙を貫く真理である。それは釈迦が悟られる前から存在し、釈迦が悟られた後にも存在する普遍の法則である。そのことを忘れてはならない。

 悟りとは、その法則を知り、その法則の中にて生きることである。されば、悟りを得た者が、すべてにおいて調和していることは、当然のことでしかない。

 悟りを得るとはその宇宙を貫く法則を知り、その法則に則って生きることを知ることである。それを言葉にて表すならば、三法印に尽きるであろう。

 またその法則とは何かを表すならば因果の法則であり、悟りに至る方法論を説くのであるならば四聖諦となる。されどその道は険しく、万人がたどり着くことは困難な教えである。

 そして時代は下り、数多くの弟子が釈迦の説かれた教えを守り、そして解釈することに専念をしたが、同時にそれは仏の教えが学問となり、多くの衆生の苦悩に背を向けた教えとなってしまった歴史でもある。

 それがために、仏教は改革の運動が起き、大乗の教えが説かれ、多くの経典が残される結果となった。大乗の教えとは釈迦の直説ではないと陰口をたたく者がおるであろう。

 されど釈迦が教えを説かれたのは多くの衆生の苦悩を解消するためであり、それ以外に何の目的があろうか。そして、我らの説く大乗の教えは、その釈迦の精神を受け継ぐ教えである。

 我らの教えは、そなたたちからするならば、曹洞宗の教えであると言いたいであろうが、我らは自らの教えを曹洞宗と名乗る気持ちはない。我らの説く教えは仏教であり、釈迦の残された教えでしかない。されば我らの教えとは仏教でしかなく、他に名乗るべき教えはない。

 今のそなたに多くを説いたとしても分からぬであろう。だが学ぶべきは知識ではない。多くの者が求める悟りとは知識を追い求めることではない。強いて言うなれば多くの知識を追い求めることではなく、多くの知識を捨てることである。

 何ゆえに多くの知識を捨てるのか、それは小さな囚われを捨てることである。逆説的ではあるが小さな囚われを捨てるために学ぶことが我らの学びである。学べば学ぶほどに知識の囚われを捨て、小さな自分の囚われを捨てなければならない。

 されど囚われを捨てるための学びが、知識に囚われるならば、知識に溺れることになる。同じように小さな自分の囚われを捨てるための修行が、修行に囚われるならば、修行に囚われることになる。

 さればこそ、宗祖道元禅師は只管打坐を説かれた。それは、すべての囚われを捨てることの中にしか、悟りがないことを表した言葉である。されば、世俗の知恵にて仏の心を推し量ろうとすることは、無意味なことでしかない。

平成二十年三月二十四日
posted by 星 良謙 at 22:53| Comment(3) | TrackBack(0) | 曹洞宗の霊界通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月28日

法華経の教え


問い
日蓮聖人の説かれた教えを批判するつもりはありませんが、私には日蓮聖人の説かれた教えは、あまりにも論理的な飛躍がありすぎて理解できません。これは私に限られたことではなく、多くの者たちが抱く印象ではないでしょうか。

 あなたの心の中には、日蓮宗系統の新興宗教の者たちの活動に対する悪い心象があるがために、日蓮聖人の教えを素直に聞くことができないだけにすぎません。私たちの生きた時代にも、邪教がはびこり、僧侶たちは堕落していましたが、それは今も何も変わっていないことは、あなたも承知しているはずです。

 僧侶でありながら、来世を信ずることもなく、仏が衆生を導くために、今も教えを説き続けていることを平然と否定することが、科学的な態度であると考えている大馬鹿者もいます。また、僧侶が仏の教えを守り、伝えることが役目であることも忘れ、現世での生活の糧を得るための仕事としてしか考えていない不届き者も数多いことは、今更語る必要もありません。

 それが、許されるべきことでしょうか。仏の教えを説きながらも衆生の苦悩に背を向けて、自分たちのだけの栄耀栄華を求めることが、僧侶として許されることでしょうか。かりにも、仏の教えを守り、伝える者であるならば、衆生を救済することが最優先されるべきでありませんか。

 その思いが押し止めることが、不可能であるほど強かったのが、宗祖日蓮聖人なのです。その生涯は、仏への帰依と衆生を救済することへの情熱が、すべてであったと考えるべきなのです。そのため、その情熱を理解することができなければ、その教えも理解することができないでしょう。

問い
多くの者たちは日蓮聖人の深い教えを理解することなく、仏の救いを現世利益でしか考えることができずにいると思われます。そのことをどのようにお考えでしょうか。

 末法の続く世であるならば、多くの者たちが仏の教えに触れながらも、その真意を理解することができないのも当然のことです。そのため、末法の世であればこそ、法華経の価値は一際輝きを増すのです。

 法華経では、どのような語悪非道な人間であっても法華経を信じ、その教えに帰依するならば、必ず救われると説かれていることを忘れてはなりません。極悪非道な人間ですら法華経の力にて救われるのであるなら、難しい教えを理解することができない者であっても、法華経の教えを信じ、その教えに帰依するならば、必ずや仏に救われるのは当然です。

問い
教えの内容を理解することもなく、その教えを信ずることは、妄信になる危険が非常に強いのではないでしょうか。

 あなたが妄信を危惧するのは、多くの者たちが道を誤った過去を前提にしているのでしょう。しかし、道を誤った者は、本当に法華経の教えに帰依した者たちなのでしょうか。仏の教えを説くことに優越感を感じる者たちであったのではないでしょうか。

 本当に、仏の教えに帰依しているのならば、その心は慈悲の心で満たされているはずです。どんなに極悪人としか考えることができない者であっても、すべての者は、仏から悟ることが約束されている者なのです。

 そのため、今は迷いの中にある者たちではあっても、必ずや仏に救われる者たちであるとの考えを持つことは、当然のことなのです。しかし、道を誤った者たちは、そのような心で仏に帰依していたのでしょうか。

 本当の慈悲の心で、仏に帰依しているのでしょうか。迷いの中にある者たちを導くことが、仏弟子の役目であっても、本当に慈悲の心に満たされているのでしょうか。その心がなければ、どんなに法華経の教えを信じても、法華経に帰依したことにはなりません。ただ、法華経の教えを利用して自分を飾っているだけのことです。

問い
狂信者たちの多くも自分たちこそが本当の仏弟子であり、自分たちの教えを広めることこそが世を救うと考えているのではないでしょうか。

 水は低い方には流れますが、高い方には流れません。仏の教えの真意を理解できない者たちは、その形骸だけを利用して教えを説き、迷いの中にある者たちを惑わします。そのため正しき教えが説かれねばならないと考えます。

平成17年12月9日
posted by 星 良謙 at 22:26| Comment(1) | TrackBack(0) | 日蓮宗の霊界通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月27日

神と向き合う時間


問い
人に理解して欲しいとの気持ちは傲慢さの表れなのでしょうか?

 言葉を覚えたばかりの三つ子でも教えを語れるが、八十の老人でも行うことはできない。言葉にとらわれてはならない。言葉にとらわれるならば、神の心を見失うであろう。

 言葉で考えたとしても神の心を知ることはできす。言葉をめぐらしたとしても、神の心を伝えることはできない。神の心とは融通無碍であり、人間の智恵を超えていることを忘れてはならない。

 謙虚さを説けば、謙虚さにとらわれ、誠実さを説けば、誠実さにとらわれる、すべてにとらわれることの愚かさを説くならば、とらわれのない心にとらわれることになる。

 ゆえに言葉にとらわれる限りは、神の心を知ることはできない。心静かに神に向き合う時間ことが大切である。静かな心で、神に向き合う時間を大切にせよ。

問い
静かな心で神様に向き合おうとしても逆に怒りや憎しみ、不平不満の心が湧き起こり、感情に翻弄される場合には、どのようにすればよいのでしょうか?

 愛情に溢れる親なれば、赤子が泣き喚く声がうるさいと赤子を折檻するであろうか。すべての国民(くにたみ)の親である大神様がどうして国民が嘆き悲しみ、また怒り狂っているからと、そのことを咎めるであろうか。

 大神様は、国民の心がどんなに幼いとしても、そのことを大神様は、とがめられるはずもなく、限りなき慈悲の心で見守られている。その心を人間の心で推し量ろうとしても知ることはできず、またその働きを人間の智恵で推し量ろうとしても、徒労に終るであろう。

 大切なことは、神に向き合うことであり、神の前でとりつくろうことでもなければ、これ見よがしに祈ることでもない。すべては、心のままに祈ることが大切である。

 この祝詞を奏上しなければならないと考える必要もなければ、長時間祈らなければならないと考える必要もない。ただ神を敬い、神に向き合い、神に祈ることが大切である。そのことを知るならば、神の前でこれ見よがしに祈る気持ちを起すはずもない。

問い
静かな心で神様に向き合うことがほんの少しだけ知ることができましたが、自分を飾ろうとする心を捨てることができません。

 心の闇を消そうと思うな。心の闇を消そうとするならば、心の闇にとらわれる。神に向き合うとは、心の闇を消すことではない。神の子としての自覚を持ち、神の子として生きることを決意することでもない。それらはすべて方便でしかない。神の教えとして説かれているすべての教えとは方便であり、神の心を人間の智恵で理解できると考えるならば、神の心を知ることなどできない。

 ある者は、神と向き合うことで己の愚かさを知り、神の偉大さを知るであろう。また別の者は、神と向き合うことで自分の傲慢さを知り、自分が生かされていることを知るであろう。だが、それは神の心の一部であり、神の働きの一部でしかない。

 神と向き合うことで何かを知ることができたとしても、それは神の心の一部であり、神の働きの一部でしかない。そして、神と向き合うことで何かを知ることができたとするならば、それは、そのことがその者にとって大切な教えであったとしても、万人にとって必要な教えであるとは限らないことを忘れてはならない。

 勇気のない者には勇気が必要であり、寛容さのない者には寛容さが必要であろう。だが、血気にはやる者には、落ち着きが大切であり、優柔不断な者には決断する勇気が必要となる。しかし、勇気が神の教えとして説かれるならば、その言葉だけが独り歩きし、慎重であらねばならぬ者に対しても決断を迫ることになるであろう。

posted by 星 良謙 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 神道の霊界通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

信じるとは


 大神様を信じるとは、大神様の心を知ることと同じことであり、大神様の心で生きることと同じ事でしかない。だが世の多くの者は、大神様の働きを自分に利益をもたらしてくれるならば信じ、大神様の働きがあれば、大神様を信じる。

 大神様が自分に利益をもたらしてくれるならば、信じることは、大神様の御心を何一つとして知ることができないのと同じことでしかなく、大神様の働きがあれば、大神様を信じること、大神様の御心を何一つとし知ることができないのと同じである。

 大神様を信じるとは、大神様がすべての者に対して慈しみの心を持ち、日々慈しみの心ですべての者たちを見守られていることを信じることである。その御心のすべてを知ることは我らにもできることではなく、ただそのお心の一部を知ることしかできない。

 しかし、大神様の慈しみの御心に、一部なりとも触れることができるならば、大神様の御心にて生きることを願うであろう。それが大神様を信じることであり、大神様の働きを確信できるならば信じることができると考えるのはあまりにも愚かな考えである。

 愚かなる者たちは、自分たちが豊かで健康に暮らせるならならば、大神様に感謝することもなく暮らし、貧しくなるならば大神様に豊かな恵みを願う。それは、大神様の偉大さを知らぬ者であり、目先の利益だけを追い求めるならば、枉神の惑わしを受けることになるであろう。

 それは、大神様に豊かな恵みや健康だけを願いながらも、大神様の御心にて生きることを願う気持ちを持たないがためである。大神様の御心にて生きることを願い、日々大神様の御心でいきようとするならば、枉神の惑わしを受けることはない。枉神の惑わしを受けるのは、大神様の御心に背を向けて生きることが原因である。

 大神様は、現世(うつしよ)に生きる者たちが、大神様の慈悲を信じようと信じまいが、常にその幸せを願い、その幸せのために日夜働きかけておられる。だが、どれだけ大神様が、現世に生きる者たちに働きかけられ続けたとしても、現世に生きる者たちが大神様を信じることなく、大神様の御心に背を向けて生きるならば、大神様の慈悲を拒んでいるのと同じとなる。

 大神様が、苦悩を取り除いてくれるならば、大神様を信じ、大神様が自分の希望を実現してくださるならば信じると言うのであるならば、それは取引でしかない。枉神(まがかみ)が、何ゆえに枉神(まがかみ)と呼ばれるのかを考えよ。枉神(まがかみ)は自分を神として崇め、神として敬う者に利益を与える。

 だが、大神様は、現世に生きる者の幸せを願われ、現世に生きる者が大神様の御心に背を向けて生きるとも加護され続けているのである。そのため、大神様の御心にて生きることを願う者は常に大神様と共に生きることができる。

 されど、枉神(まがかみ)は、自分を神として崇め、神として敬う者に利益を与えるが枉神(まがかみ)は、自分を神として崇めぬ者を加護する気持ちもなく、幸せを願う気持ちもない。そのため、枉神(まがかみ)を神として崇める者は、利益でしか神を知ることはできず、大神様の偉大な慈悲を知ることもない。

 枉神(まがかみ)を神として崇める者の心とは、神との取引でしかなく、大神様の御心を知ることも大神様の慈悲も知ることができぬ信仰であり、大神様の慈悲を拒んでいるのと同じことでしかない。

平成二十年十月一日
posted by 星 良謙 at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 神道の霊界通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月25日

新興宗教の教えを学ぶ者たちへ


 多くの不安を抱え、多くの悩みを抱える者たちよ。その苦しさから逃れることを求め、かどわかしの言葉に心を奪われた者たちよ。弥陀は、その哀れさに涙を流す。

 真の教えを求めながら蒙昧(1)なるがために弥陀の慈悲にすがることができぬ者たちよ。何ゆえに自らの背丈にて仏の心を推し量ろうとするのであろうか。

 「万巻の書物を読む者であるとしても、弥陀の本願(2)を知らぬ者は愚者とす。」(3)その教えの大切さをどれ程の者が知るであろうか。そなたたちが学ぶ教えに、どれほどの価値があると思っているのであろうか。

 我らからするならば、幼子が自らの知恵を誇るのと同じでしかなく、自らが手にした器で、大海の水を量ろうとしているのと同じことでしかない。

 そなたたちは、仏の慈悲を知らずして、何を学ぼうとしているのであろうか。そなたたちが、学んでいる教えが我らの教えとは異なるとしても、本当の仏の教えであるならば、我らはそれを咎めるつもりもない。

 されど、そなたたちが学んでいるのは、本当に仏の教えであろうか。そなたたちの学んでいる教えが、本当に仏の教えであるならば、その教えを学ぶことでそなたたちの心は安らぎに満ち溢れるはずである。

 そして、そなたたちの心が本当に安らぎに満ち溢れているならば、その顔も穏やかなる顔となるはずである。仏の教えを学び、仏の慈悲に包まれて暮らすならば、その心も穏やかとなり、その顔も穏やかとなるのは当然のことである。

 自分たちだけが、仏の真意を知る者であるとでも考えているのであろうか。自分たちだけが、世の中の苦悩を解消できる知恵を持つとでも考えるのであろうか。それとも自分たちだけが、仏に選ばれた精鋭であるとでも考えているのであろうか。

 愚かなる者たちは、我らの教えの真意を知ることができぬばかりか、我らの教えが無学文盲の者たちを導くための幼稚な教えであると、誹謗中傷していることを知らぬ我らではない。

 されど、我らの教えが無学文盲の者たちを導くための幼稚な教えであるとするならば、八宗の祖と称せられる龍樹菩薩(4)が十住毘娑沙論(5)にて信方便易行(6)の法を説かれ、天親菩薩(6)が浄土論(7)にて他力の優れたることを解き明かされたことを如何に説明するのであろうか。

 それとも龍樹菩薩の著書も知らず、天親菩薩の説かれた教えも知らずして、自分たちだけが仏の真意を知る者であるとでも考えているのであろうか。

平成十七年七月十六日

(1)蒙昧 あいまい はっきりしないこと
(2)弥陀の本願 阿弥陀如来が立てられた誓願のこと
(3)「万巻の書物を読む者であるとしても弥陀の本願を知らぬ者は愚者とす。」
この言葉は浄土真宗中興の祖である蓮如上人の書かれた御文の一節です。
(4)龍樹菩薩 八宗の祖と言われる印度の学僧・浄土真宗では七高僧の第一祖
(5)十住毘娑沙論 龍樹菩薩の作とされている本
(6)天親菩薩 浄土真宗では七高僧の第二祖
(7)浄土論 天親菩薩の著書

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2010年01月24日

守護神について


問い
守護神を持つことで、人生の苦悩が解消できると説いている教団がありますが、如何にお考えでしょうか。

 愚かな教えでしかありません。その教えを信じる者たちは、我らが衆生の苦しみを放置して、何一つしていないとでも考えているのでしょうか。私たちは、一日とて衆生の苦しみを放置したことなどありません。もし、衆生の苦しみを除くことが、守護神の役目であるとするならば、私たちの仲間は、すべての衆生の守護神であることになります。

 衆生の苦しみを取り除くことが、私たちの誓願であり、菩薩としての誓願なのです。それは、私たちが大乗の戒律を授かった日より、一日とて忘れたことなどありません。その誓願の対象は、私たちの教えを学ぶ者であるか否かは、関係のないことなのです。

 私たちの教えを信ずることなく、また仏の教えを信じる気持ちを持たぬ者であるとしても、苦悩の中に生きる者が一人でもいる限り、私たちは、その心を忘れることなどありえない話なのです。

問い
多くの神霊が、苦悩の中にある者たちのために働かれているとしても、苦悩の中にある者たちは、そのことが実感として感じることができません。そのため、自分のためにだけ働いてくれる神仏を持つことができるとの話に多くの者が飛び付くのではないでしょうか。

 熱病にて苦しむ者の側にて、親身になって看病する者があるとしても、熱病に苦しむ者は熱にうなされているがために、側で看病する者がいることにも気が付くことができないのと同じなのです。衆生が苦しみの中にあるのも、煩悩と言う心の病に苦しむがためのことであり、その心の病が、仏の慈悲に背を向けさせているのです。

 自分だけの守護神を持つとことで、自分の苦悩を解消できるとの教えは、熱病に苦しむ者に冷水を与えるのと同じことなのです。熱病に苦しむ者は、その苦しさから冷水を求めるとしも、冷水を与えるだけでは熱病が治ることはないのです。

 熱病を治すには、冷水ではなく、薬が必要なのです。その薬は、熱にうなされる者には、苦いだけでしかないとしても、病に苦しむ者に薬を与えることこそが、本当の慈悲なのです。

問い
菩薩の誓願が衆生の苦悩を抜き去ることであり、そのために、多くの神霊が働かれているとしも、苦難の中にある者は、どうして自分の苦しみを取り除いてはくれないのかと考える者が大半ではないでしょうか。

 それは間違った心にて生きているために、心に苦しみを創り出していることが多いことが原因であると言えます。私たちの救いとは、心の病を癒すことであって、それは煩悩に翻弄されて苦悩する者たちを悟りへと導くことなのです。

 例えば、酒に溺れて生活を破綻させてしまっている者には、まず酒をやめさせることが必要です。しかし、酒に溺れる者に、ただ酒をやめろと言い聞かせても、酒をやめることができないのではありませんか。

 大半の場合、本人も酒をやめなければならないことは、承知しているのです。それをやめることができないのは、苦しみを解消できないために、酒に逃げることしかできないからなのです。そのため私たちは、まず、その者が自分の抱えている苦しみを解消できるように、指導しているのです。

 それは、医者が患者を診断して薬を処方するのと同じことなのです。医者が患者の病を治すのではないのです。患者が薬を服用することで、自分の力で病を克服するのです。医者にできることは、患者を診断して薬を処方することなのです。

 それは一見するならば、非常に遠回りな方法なのです。苦悩の中にある者たちは、自分の抱えている苦悩が、仏の力にて即座に解決されることだけが、仏の救いであるかのように考えるのです。しかし、それは熱病に苦しむ者に冷水を与えるのと同じことでしかないのです。

 煩悩に翻弄される者たちに必要なのは、無明を破る仏の知恵なのです。その仏の知恵を得ることこそが、本当の煩悩の解消であり、悟りへの道なのです。

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2010年01月23日

信じること


問い
先祖供養についておたずねします。先祖を供養するには、どのような心構えにて供養すべきなのでしょうか。

 どうしてそのようなことを尋ねるのでしょうか。人として亡き肉親を弔う心を持つのは当然のことでしかなく、それが親兄弟、あるいは、幼くして他界した子供であっても、その菩提を弔うことに、何の心構えを説かねばならぬのでしょうか。

 生前に充分な仏道修行を修めることが、できなかったのであるならば、追善供養をするは人としての道であり、その心を持たないのであるならば人倫に欠けた者でしかありません。

問い
最後に題目を唱えることの意義についてお話をお願いします。

 あなたは私の話に不満を抱いているようですが、それはあなたが私たちの教えを「知」として理解することができるからです。しかしあなたも最初から法華経の教えを理解することができたわけでもなく、天台の教えを理解することに悪戦苦闘したはずです。

 あなたは天台の教えだけを学んでいては、到底その教えを理解することができないことを知り、小乗の教えを学び、三論宗の教え学び、法相宗の教えを学び、更に華厳の教えを学ぶことでやっと天台の教えがおぼろげながらも理解できたはずです。

 そして天台の教えを学ぶことで、やっと私たちの教えを理解することができたはず。しかし、多くの衆生にそのような学びができるでしょうか。もし学ぶことができたとしても知識を増やすだけの結果に終わる者は多いのです。

 多くの者たちが怪しげな教祖の教えを信じるのはどうしてでしょうか。苦悩の中にあって神仏の慈悲を信ずることができないために、目先の現世利益に飛びつくのです。またある者は自分の居場所がないために自分の居場所を求め、ある者は自分の劣等感から逃れることを求めて偽りの教えに帰依するのです。

中略

 長く続く末法の世といえども、これほどまでに仏の教えが荒廃してしまうとは、どのように仏にお詫び申しあげればよいのかと、心を痛め続けているのは、私だけではありません。

 本当に仏の慈悲を信じる心を持ち、心から仏の救いを信じるのであるならば、どんなに巧みに仏の教えと偽っても、その教えの間違いに気付くことができるはずです。また万巻の書物を読んでも仏の慈悲を信じ、仏の救いを信ずることができなければ、仏の教えを知ることはできないのです。

 そのため、私たちは衆生に「信じることの大切さ」を説きます。信じる心が確立して不動のものとなるならば、現世にありながらその身そのままに仏の世界にて生きていることを意味します。

 「南無妙法蓮華経」の中にすべての仏の働きも仏の教えも集約されていることは、宗祖日蓮聖人が解き明かされたことです。その仏の働きと仏の教えを体得するために一番大切なことは、仏の慈悲と仏の救いを信じることなのです。

平成17年12月10日
posted by 星 良謙 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日蓮宗の霊界通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教えに帰依すること


問い
日蓮聖人の説かれた教えを批判するつもりはありませんが、私には日蓮聖人の説かれた教えは、あまりにも論理的な飛躍がありすぎて理解できません。これは私に限られたことではなく、多くの者たちが抱く印象ではないでしょうか。

 あなたの心の中には、日蓮宗系統の新興宗教の者たちの活動に対する悪い心象があるがために日蓮聖人の教えを素直に聞くことができないだけにすぎません。私たちの生きた時代にも邪教がはびこり、僧侶たちは堕落していましたが、それは今も何も変わっていないことは、あなたも承知しているはずです。

 僧侶でありながら来世を信ずることもなく、仏が衆生を導くために、今も教えを説き続けていることを平然と否定することが、科学的な態度であると考えている大馬鹿者もいます。また、僧侶が仏の教えを守り、伝えることが役目であることも忘れ、現世での生活の糧を得るための仕事としてしか考えていない不届き者も数多いことは、今更語る必要もありません。

 それが許されるべきことでしょうか。仏の教えを説きながらも衆生の苦悩に背を向けて、自分たちのだけの栄耀栄華を求めることが、僧侶として許されることでしょうか。かりにも仏の教えを守り、伝える者であるならば、衆生を救済することが最優先されるべきでありませんか。

 その思いが押し止めることが不可能であるほど強かったのが宗祖日蓮聖人なのです。その生涯は、仏への帰依と衆生を救済することへの情熱がすべてであったと考えるべきなのです。そのため、その情熱を理解することができなければ、その教えも理解することができないでしょう。

問い
多くの者たちは日蓮聖人の深い教えを理解することなく、仏の救いを現世利益でしか考えることができずにいると思われます。そのことをどのようにお考えでしょうか。

 末法の続く世であるならば、多くの者たちが仏の教えに触れながらも、その真意を理解することができないのも当然のことです。そのため、末法の世であればこそ、法華経の価値は一際輝きを増すのです。

 法華経では、どのような極悪非道な人間であっても、法華経を信じ、その教えに帰依するならば、必ず救われると説かれていることを忘れてはなりません。極悪非道な人間ですら、法華経の力にて救われるのであるなら、難しい教えを理解することができない者であっても、法華経の教えを信じ、その教えに帰依するならば、必ずや仏に救われるのは当然です。

問い
教えの内容を理解することもなく、その教えを信ずることは、妄信になる危険が非常に強いのではないでしょうか。

 あなたが妄信を危惧するのは、多くの者たちが道を誤った過去を前提にしているのでしょう。しかし、道を誤った者は、本当に法華経の教えに帰依した者たちなのでしょうか。仏の教えを説くことに優越感を感じる者たちであったのではないでしょうか。

 本当に仏の教えに帰依しているのならば、その心は慈悲の心で満たされているはずです。どんなに極悪人としか考えることができない者であっても、すべての者は、仏から悟ることが約束されている者なのです。

 そのため、今は迷いの中にある者たちではあっても、必ずや仏に救われる者たちであるとの考えを持つことは、当然のことなのです。しかし、道を誤った者たちは、そのような心で仏に帰依していたのでしょうか。

 本当の慈悲の心で仏に帰依しているのでしょうか。迷いの中にある者たちを導くことが、仏弟子の役目であっても本当に慈悲の心に満たされているのでしょうか。その心がなければ、どんなに法華経の教えを信じても、法華経に帰依したことにはなりません。ただ、法華経の教えを利用して自分を飾っているだけのことです。

問い
狂信者たちの多くも自分たちこそが本当の仏弟子であり、自分たちの教えを広めることこそが世を救うと考えているのではないでしょうか。

 水は低い方には流れますが、高い方には流れません。仏の教えの真意を理解できない者たちは、その形骸だけを利用して教えを説き、迷いの中にある者たちを惑わします。そのため正しき教えが説かれねばならないと考えます。

平成17年12月9日
posted by 星 良謙 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日蓮宗の霊界通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

布施について

あなたは何を悩んでいるのですか。あなたが悩んでも何も解決することはないのです。あなたは自分のなすべきことは承知しているはすなのです。あなたがやろうとしていることを、あなたの抱える事情を知らぬものたちが、何を言うとしても気にする必要もないことなのです。

 布施を受け取らぬ行為は、清廉ではあるとしても現実を無視した行為でしかないのです。現世に生きる者は、どれだけ高い悟りを得た者であるとしても、現世の束縛から逃れることはできないのです。出家者は、在家の者たちからの布施があってこそ、悟りを得るための修行をすることができるのです。そのことを無視して教えを説く者は、清貧でなくてはならないと考える者たちがあるとしても、それは悟りの雰囲気に酔いしれる者たちの考えでしかないのです。

 在家の者たちは、悟りを求めて修行する者に布施をすることも大切な修行であることを忘れてはならないのです。あなたは、布施を惜しむ者たちのその心の醜さも知るはずなのです。僅かな布施を惜しむ者たちに、布施をすることの意義を説くことも、仏の教えであることを忘れてはならないのです。

 私は生活に困窮する者たちに、布施を強要しなさいと言っているのではありません。際限のない布施を強要しなさいと言っているのではありません。自分が刹那の喜びを得るためには、金を惜しむ心を持たずとも、布施をすることを惜しむ心を持つ者たちに、布施をすることの大切さを説かねばならないのです。

 あなたが一部の宗教家や霊能者と呼ばれる人々が、法外な金銭を要求していることに心を痛めていることは承知していますが、布施をすることは功徳を積むことであり、在家の者たちの大切な修行徳目なのです。もしも、神仏の教えを説く者が、布施を受け取るべきではないとするならば、医者は病人から金銭を受け取るべきではなく、また教師は無償にて生徒を教えなければならないことになるのです。

 それが、どれだけ現実を無視した話であるかは、あなたにもわかるはずです。大切なことは、どれだけ生きた教えを説けるかであって、金銭を受け取るか否かの問題ではないのです。金銭を受け取ることなく、教えを説き続けることには、限界があるのです。誰であっても自分の生活を維持するために、努力し続けなければならないのです。

 衆生の誰しもが僧侶に帰依し、僧侶を敬い、僧侶に布施することを当然であると考えるのであるならば、僧侶は修行に専念できますが、仏に帰依し、仏を敬う気持ちすら失ってしまった衆生が、溢れているのであるならば、修行を継続できるだけの生活の糧を得ることも大切なことであるのです。

 金銭を受け取ることもなく、苦悩する者たちを救うことを願ったとしても限界があるのです。どんな人であるとしても、自分の生活を維持しなければならないのです。その現実を無視して教えを説いたとしても、教えを残すことなどできないのです。それは、教えを説く人に、すべて共通していることであり、そのことを無視することはできないのです。


名乗る程の者ではありません。このことは僧侶ならば、誰しもが思っていることなのです。
posted by 星 良謙 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗旨不明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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